クソ客のいる生活#002

客からされて嫌な質問というのがある。

たとえば、この仕事をしている理由、住んでいる場所、小さな頃のエピソード、親との関係、彼氏の有無…多くはプライバシーに関わるもので、この仕事でなくとも答えたくないという者がほとんどであろう内容だ。

多くの同業者達はこれらの質問に対する偽の答えを用意している。客からの追求はたいていの場合執拗で、一度「教えられない」と答えた程度では引き下がらないからだ。

『そんなくだらない問答に時間を奪われて接客時間が無為に過ぎていくくらいなら、風俗嬢のわたしというキャラを先に作っておこう。本名も生まれ故郷も念入りに考え抜いたキャラクターを』

彼女達は賢明だ。そして懸命だ。時間内で料金に見合ったサービスを提供するため、目の前の客を指名客として返すため、本当の自分を守るため、必死に考え、行動する。

わたしにもキャラクター設定がある。出生地や最終学歴、血液型から趣味に至るまで、徹底的に作り上げた『風俗嬢のわたし』というキャラクターが。

それにも関わらず、決して訊かれたくも答えたくもない質問というのが、たったひとつだけあった。

 

「本名はなんていうの?」

彼らの問いかけはたいてい唐突だ。

「え~、内緒」

媚びた声色はいつも通りに、強すぎない拒否の言葉を使って答える。

ラブホテルのむやみに広いバスタブで縦に並んで入りながら――客が脚を伸ばして座り、その両脚の間に収まる形でわたしが座る――、質問者である客はわたしの胸をしつこく揉みしだいている。性感を煽っているつもりなのか、時々指で乳首を弾く動きが鬱陶しい。

「なんで? 教えてよ」

わたしはいつもここで混乱する。混乱し、嫌悪する。拒否がまるで通じないことに。相手の、自分の意志は無条件で飲まれるべきだという身勝手さに。

わたし達は源氏名という仕事のための名前を名乗っている。それ以外の名は、今この場でわたしには存在しない。

「だめ」

語彙を持ち合わせない子どもの口調で答えた。

わたしの声はまだ笑っている。またぞろ始まってしまったバカバカしいやりとりにうんざりし、乳首を押し潰してくる指使いにイライラし、客の要望で熱めに入れた湯のせいで顔に汗をかくのを気にしているが、まだ笑っていられる。

わたしの仕事はなんだろう。

わたしの仕事は客の射精の手助けをすることだ。洗浄した男の体を愛撫するだけでなく、裸になって体を触らせ、必要とあらば喘いでみせ、膣に仕込んだ潤滑ゼリーによって「あなたの指使いで濡れちゃったの」だと思い込ませる。そこまでのサービスは料金に含まれている。

背後にいる男の射精は一度遂げられており、残りの15分をどう無難に過ごすか、時短や数分の超過なくこの枠を終了させられるかが、現在のわたしの課題のはずだった。

「なんで? いいじゃん、本名くらい」

男の声に不満の色が滲み出たのを聞いて、思わず声を上げて笑ってしまった。

この男は、わたしにいつも本名を訊いてくる客達は、普段の生活でもこんな風なんだろうか? 取引先が開示できない社外秘情報や、飲食店でランチセットが売り切れになった理由について、こうしてしつこく問い質すのだろうか? いいじゃんそれくらい、と言って。

考えたことをそのまま言葉にできたらどんなにいいだろう。額から落ちた汗がつけまつげを濡らさないよう顔を傾けながら、わたしは客達がそろって「色っぽい」と褒めそやす含み笑いを続ける。早く湯舟から上がりたかった。

「ねえ、教えてよ」

客はそう言って、笑いながらわたしの乳首を抓る。痛くて不快で、思わず、

「痛いことしないで」

と言ってしまった。

笑っていた男の息遣いが変わったのを背中で感じ、思わず、しまった、と顔をしかめた。彼らの不満の限界値はひどく低く設定されており、それはいつも、彼ら自身の身勝手さゆえに簡単にその限界を突破する。

「え、なんで? そんなにおれには言いたくないの? 本名教えてなんか困ることあるの?」

しないでと懇願したばかりなのに、男は再びわたしの乳房を掬い上げて乳首をまさぐる。親指と人差し指で挟み込みグリグリと擦り潰す。ただでさえ一日中触られっぱなしの部位は薄皮が剥けたのか、湯が沁みて今にも悲鳴を上げそうに痛んだ。

その行動に意志や知性が反映されているとはとても思えない。人間らしさの欠けた一連の言動に、わたしは熱い湯に浸かりながら肩口に鳥肌を立てていた。

「痛いってば。やめて」

ただただ、気持ちが悪かった。

「なんで? 気持ちよくなっちゃった? 本名言ってくれたらもっと気持ちよくなれるよ」

痛いという言葉は、たいていの場合、彼らの頭の中では『気持ちいい』に変換されてしまう。やめてという言葉は、半分ほどの割合で『もっとして』に変換されてしまう。

彼らとまっとうな会話をしようという努力は、いつだって意味を成さない。

SF映画に出てくる宇宙人だって、もっと話は通じるだろう。

「本名なんか聞いてどうするの?」

男の手から身をよじって逃げながら、質問を返した。

「別にどうもしないよ。こうやって――」

言いながら、男がわたしの上半身に両腕を回して抱き寄せた。突然のことに対処しきれず、男の胸に後頭部がぶつかる。湯舟いっぱいにたまっている湯の中に、後ろ髪がほとんど浸かってしまう。

「こうやってイチャイチャしながら本名呼ばれたら、興奮するでしょ?」

囁きながら耳の穴に舌を差し込まれそうになって、わたしは反射的に男の腕を振り払っていた。そのままの勢いで湯舟の中に立ち上がり、素早く洗い場へと抜け出す。

「髪が濡れちゃったんで、ドライヤーするお時間いただきますね」

肩越しに振り返って見下ろすと、男が半端な笑いを張り付かせたまま、こっちを見上げている。

汗と脂の浮いたあの顔面に唾を吐いてやれたら、どれだけ胸が透くだろう。いや、唾一滴だってくれてやるものか。

「あ、どうぞ。好きにして」

拒否されたことにようやく気が付いたらしい男が、もはや隠しもしない不愉快満点のつっけんどんさで答える。わたしはもう振り返らずに洗面所に向かい、備え付けのドライヤーを手に取った。

水滴を吹き飛ばす風の音を聞きながら、客の過度な支配に屈しなかった自分を、胸の中で慰めていた。

客はわたしに興味があるわけではないのだ。源氏名で裸になる女の秘密を強引に暴いて中を弄り回し、そこに犬のようにマーキングして、征服した気になりたいだけなのだ。

偽の本名であろうが本当の本名であろうが、それを呼びながら体をまさぐられることが、わたしには耐え難い苦痛だった。その様子がたとえ無機物相手に腰を振る犬のように滑稽であったとしても。

汚らしい支配欲に屈してやることは、料金には含まれていないのだ。

すっかり濡れてしまった髪の毛はなかなか乾かない。外は猛暑だ。事務所に帰るまでに乾くといい。

犬のように滑稽で宇宙人よりも話の通じない客は、浴室で沈黙を保っている。

そのまま溺れてくれてもかまわないが、死なれたら迷惑だ。残り時間が3分になったら、声をかけよう。

言葉が通じれば、ひとりで風呂から上がるくらいのことはできるだろう。