瓦礫の上で生きる

遭難したまま生きて、破壊された瓦礫の上におぼつかない手つきで建てた不安定な家に住んでいる。
瓦礫になったとはいえ、それは自分の人生に違いないので、撤去することもできない。いつか掘り起こそうと思いながら、見るのも悲しいから手を出せなかった。

性売買のただ中にいた頃は気づかなかったけど、あの頃わたしの自尊心は売り物だった。自分の尊厳や自尊心を差し出して踏みつけさせることこそが仕事だった。尊厳は傷つき汚れ、時間の経過とともに実際的な社会的信用は失墜し、これくらい平気だと自分に言い聞かせながら擦り切れた陰部を洗い、後ろめたさによる沈黙を受け入れていた。
自分を大切にするというのは、自尊心を保つというのは、長らく私にとって贅沢なことだった。

生活保護に繋がって少しした頃、わたしは焦っていた。

早く資格を取って、早く就活して、これまでできなかった社会貢献をして、早く、早く。ヒトサマのお金で生き延びてるんだから。早く。

誰かの世話になるというのが怖かったし、世話になるからには模範的であるべきだと思っていた。役に立つモノであるべきだと思った。見知らぬ男にフェラチオをしないで生活費を得られるんだから、それくらいの意識でいなきゃいけないと思っていた。

ある時、焦ってほとんどパニックになっていたわたしに婦人相談員さんが「少なくとも2〜3年かけて自分の人生を取り戻してください。就労や社会復帰は今じゃなくても大丈夫です」と言ってくれた。その時は、その場に崩れ落ちるくらい安心した。

やりたくないことやできないことを、早くやれと急かされないことが、どれだけわたしを救ってくれただろう。

安心したわたしは、まずは言われた通り、ゆっくりしてみることにした。

わたしは、部屋は物が少なくて風通しがいいのが好きだ。
わたしは、料理を毎日はしたくないが、自分で作ったものを食べるのが好きだ。
わたしは、のんびり時間をかけて小説を読むのが好きだ。

わたしは、好きな映画をくり返しくり返し観るのが好きだ。
わたしは、ひととワイワイするのと同じだけ、ひとりでボーッとするのが好きだ。
わたしは、ある程度毎日のルーチンが決まった生活が好きだ。
わたしは、
わたしは、

それらは、少しずつ時間をかけて瓦礫から発掘できたものだった。尊厳のカケラ、自尊心のよすがだった。
焦って自分をないがしろにしていたわたしを落ち着かせてくれたひとがいたから、そのひとがわたしの話を丁寧に聞いてくれたから、わたしはわたしの人生の瓦礫を見つめ直して、そこに埋もれていた大事なものを掘り出すことができた。
それらは実に些細で、私的で、いっそつまらないと言えるようなものかもしれない。
でもある時、件の相談員さんが何気なく言ったのだ。
「柊さんは、マメですね」
すごく驚いた。わたしは自分をマメだと思ったことなんか一度もなかった。
そうか。わたし、マメに暮らしたかったんだ。
それは輝かしい発見だった。自分が本当はどうしたいのか、どう生きたいのかを、まず"ひとつ"取り戻した瞬間だった。

それからほんの数日前、久しぶりに20年来の友人に近況を報告した。
友人はわたしの色んな状況を聞いたうえで、
「柊さんが本当にやりたいことをしたらいいと思う。あなたが楽しめて、あなたが何より力を尽くせるというものを見つけるといい。それがあなたにとっても社会にとっても一番幸せなことだと思う。今はそれを探してもいい時期なんだから」
そう言ってくれた。

生活保護を受給するようになって1年半が経つ。
今でも、健康で体力もあって好きなことを楽しめる自分が受給に甘んじていていいのかと、考えることがある。
でもわたしはこの点において、自分を急かしたがる自分ではなく、わたしの話を丁寧に聞いてくれた婦人相談員さんや友人を信頼している。
わたしを赦してくれるひとを信じることにしたのだ。
彼女達は、自尊心は贅沢品などではないとわたしに教えてくれる。

色んなひとの励ましと赦しが、わたしを生かしてくれている。
瓦礫の上の不安定な家に今も暮らしながら、遭難したままの心許ない人生をこの先も生きると思う。
性売買を経験した当事者としての記憶は消えることなくあるし、性売買を許容する社会もすぐに変わることはないだろう。それらへの怒りも憎しみも変わらない。
自分にできることはとても少なく、ともすればほとんど何もないだろう。
今はそれでもいいと思う。少なくとも今は。
わたしは今日もマメに暮らす。
窓を開け、料理を作り、音楽を聴く。ソファーに寝転んで本を読んだり、たまに風呂をサボったり、アイスを食べたりする。

少なくともそうして生きている今日のところは、誰もわたしを蔑ろにしないし、傷つけない。
わたしは自尊心というものを意識する必要さえない。

取り戻した自尊心のカケラを、誰にも触れさせない場所に大切にしまっておいて、時々思い出して取り出して眺める。

その都度、誰にも触らせないでいい場所がわたしにもあったのだと、改めて嬉しく、切なくなりながら。