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2009年12月
ジェームズ・キャメロンのアバターという映画が日本で公開されたのは、2009年の暮れことだ。
3Dメガネで映画を鑑賞をしたのはこの作品が初めてだった。有楽町の映画館でのことだ。
仕事で知り合った男とのはじめてのデートだった。
映画はとても面白かった。撃墜されたヘリコプターが墜落してくるシーンは大迫力で、劇場の椅子の上で身を竦めてしまったことを憶えている。
映画の後何を食べたか、どんな話をしたかはちっとも憶えていない。
男の知り合いがやっているというバーに行ってハイボールを飲んだところで、わたしの記憶は一旦途切れる。
次に気が付いた時にはうなされていた。痛いと呻いていた。
目を開けると、裸で仰向けになったわたしの上に、同じく裸になった男がのしかかっていた。
抵抗したのかどうかも、記憶が曖昧だ。
ただ、気に入っていた服が全部丸めて部屋の端に投げ捨てられていて、それがとても気になった。
事が終わって、したたかに酔っていたわたしはトイレに駆け込んで嘔吐した後また眠ったらしく、次に意識がはっきりした時、男はとっくに身支度をすませていた。
「タバコ買ってくるから。帰りたかったら帰って」
男を見送り、しばらくベッドに寝転んでから、服を着てひとりでホテルを出た。服はやっぱり、シワになっていた。
あれがどこのホテルだったのか、一体どうやってどこの駅まで歩いたのか、どうやって帰ったのか、全然思い出せない。帰り道の端には掃き寄せられた雪が汚らしく溜まっていて、空が抜けるように青かったことだけはよく憶えている。
この虫食い状の記憶を、わたしは忘れていなかった。ちゃんと自身のエピソードとして把握していた。
アバターのDVDをレンタルするたび、そういえば初めて観たのは映画館だったよな、あの後あんなことするつもりじゃなかったのに、変なことになったんだよなあ、と、思い出しさえしていた。おかしな話だけど、憶えていたのに、理解できていなかったのだ。
2019年8月
一年前、わたしの人生にフェミニズムがやってきた。
伊藤詩織さんの事件を知り、あの日自分の身に起きたことがレイプだったのだと、忽然と理解した。
――2018年になっていた。
理解して、わたしの世界は一変した。起きたことは変わらないのに。
思い出すと、奇声を上げて暴れ出しそうになる。
今すぐ男を探し出して、この手で殴り殺してやりたい。
今すぐ高いところから飛び降りて死んでやりたい。
それを堪えて、これを書いている。
わたしの人生にはまだまだたくさんそういったことがある。
なんだか理解できないままに、とにかく、なんとか、ようよう、乗り越えて、忘れたり知らないふりをしていたことが。
それらがなんだったのかどうして起きたのか、知りたいと思った。
忘れたままにしたくないと思った。
多分、この世にはそうして忘れたり知らないふりをしたりして、なかったことになってしまった痛みや苦しみが無数にあったはずだから。
黙っていてやるなんて、もうまっぴらなのだ。
ずっと苦しかった。
女性として生きることは悔しく、悲しく、むなしいことの連続だった。
自分を責めることの繰り返しだった。
自分のことをちっとも好きになれなかった。
フェミニズムを知ったばかりの頃、こんなにも堅固な性差別が社会に深く根付いていて、この先どうやって生きていけばいいんだろうと絶望した。
今は少し違う。
フェミニズムはわたしに「あなたは悪くない」と言ってくれた。
悪いのは酩酊し前後不覚になったあなたに暴力を働いた男であって、あなたは何も悪くはないのだ。だから自分を責めたりしなくていい。と。
わたしは同じことを自分に言い続けていきたい。それはひとえに同じような辛い目に遭ったひとの希望になることにもなると思うからだ。
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